第5代(現)会長 加瀬間 俊勝
成田空港対策協議会は1983年6月に成田市内の30主要諸団体から構成する協議会として発足致しました。当初のこの会の目的は成田空港二期工事の早期着工と完全空港化を目指し、日本の空の表玄関として世界に誇れる空港の実現でありました。当時はまだ4000m滑走路1本のみでの開港でありましたし、空港反対の三里塚闘争が中々収束せず、空港内に入るのには常に検問所を通過する必要が長く続いた訳であります。その後も『成田空港問題シンポジューム』や『成田空港問題円卓会議』を経て、空港と成田周辺地域の共生共栄の考えのもと、周辺住民に常に寄り添いながら諸問題の解決策を模索するべく、協議会活動を続けて参りました。
その後、成田空港はB滑走路の新設や第二ターミナル及び第三ターミナルの完成を経て長い時間を費やしながらも、令和元年には旅客数延べ11億人を突破し、更には令和2年に『成田空港の更なる機能強化』について航空法に基づく空港等の変更許可が正式に認可。また四者協議会により成田空港周辺の地域づくりに関する『実施プラン』が策定されました。これにより、B滑走路の再延伸と新たなC滑走路建設計画も正式決定となり、2028年度末までに全てが完成する道筋がたったことに成ります。
成田空港開港から42年が経過し、やっと完全空港と名乗れるときが来たという思いですが、しかしながらここに来て、全世界に新型コロナウイルス感染拡大という100年に一度のパンデミックが襲来し、またロシアによるウクライナ侵攻も起きて、全世界の航空需要が激減する難題が起こっています。日本の首都圏空港である成田空港・羽田空港、そして民間航空会社はそれこそ大変な事態に直面しております。
それでも成田空港対策協議会と致しましては、輝かしい未来の為に今後も地域共生・共栄を旗印にして地域住民に騒音下への十分な配慮をする活動を展開し、また成田空港の機能強化に対しては住民にもご理解を頂きながら2028年度までに成田空港離発着数50万回を実現させて行きたいと思います。まだ4000m滑走路の敷地内にも残された住民がいらっしゃることを忘れず円満な解決を目指して参ります。
第4代(前)会長 豊田 磐
成田空港対策協議会は1983年(昭和58年)設立以来、本年で39年目を迎えようとしております。設立は成田商工会議所、成田市観光協会、成田青年会議所、同OB有志を中心に行われました。中でも成田青年会議所(JC)の現役、OB達が積極的な役割を果たしました。JCメンバーのOBも現役も空港に関心があるのには理由がありました。それは成田JCの設立は空港の開港に合わせるという目標があったからです。結果的にはそれが実現しなかった事はJC関係者の多くが理解しているところだと思われます。ただ歴代理事長を始めとし多くのメンバーは空港或いは空港問題に関心を持っていたことは言うまでもありません。ーロで言うならば強力な成田空港建設推進派と言えるでしょう。ここで成田空港対策協議会(空対協)の生い立ちに触れると同時に空対協の代表的なメンバーであると言えるJCの第4代理事長であり空対協の第3代会長だった鬼沢伸夫さんの言動を織り交ぜながら空対協と空港問題の歴史の一部分を振り返ってみたいと思います。
JC設立の目標時期に関してはここまで触れてきたところですがJCの年間活動つまり事業として本格的に空港問題に取り組んだのは鬼澤理事長年度が初めてと言えるでしょう。
この年、成田JCは事業の一つとして“JCこども農園’'を計画しました。これは空港公団が買収した用地の一部で当面末使用の土地を借りて子供たちに農業体験をさせようというもので、そしてその土地をこの様に活用することにより空港公団と市民、空港と市民の距離をより短くする事が出来るのではないだろうかと考えて当局に要望書を提出したのです。担当部門を訪問しその趣旨と目的を説明したところ好意的な印象を得たので我々は大いに期待をしておりました。この様なケースは滅多に無いことだろうと考えておりましたので良い返事を期待しておりました。役所に要望書を提出する場合、簡単ではないことは多くの人が理解しているところですが、この時も私共はあらためて体験することが出来たのです。その書類の多さというか厚さというか同時にハンコの多さに初めての経験とはいえ驚愕でした。それでも何とか要望書を作り上げ提出することが出来ました。ただ子供達に農業体験をさせるのにどんな農産物がいいかと私たちが考えたのはさつま芋でした。
たださつま芋にしても苗を植えてから収穫するまで一定の期間を要するでしょう。ましてしばらく使用していない畑だとすれば草もかなりはえていると思われます。要するに収穫だけを考えてるわけにはまいりません。秋の収穫のためには初夏の一定の日には苗を植えなければなりません。ここで大きな間題が発生しました。申請してから数カ月、そろそろ初夏を迎えようとしているのに回答を貰うことができません。これでは子供たちに農業体験をさせる機会を失うことになると不安がつのるばかりでした。
鬼澤理事長が決めたのは空港公団の土地はあきらめJCメンバーの縁で民間の畑をぎりぎりで確保するということでした。しかしここでも雑草がぎっしりだったことは言うまでもありません。こういう状況の中で私たちが心配した事は様々な人たち、即ち積極的に空港に賛成している人々、土地を売却した人々、約束をした人々、交渉中の人々、迷ってる人々、様々な条件を出す人々、転業を考える人々、農業を続ける人々、騒音問題を抱える人々等々が政府、公団から空港建設に協力要請を受け接触し、交渉し、要望をしているものと考えられます。各々が各々の立場で交渉し良い結果を目指して空港建設に協力していると言う気持ちもって回答を待っているものと考えられます。ここで鬼澤理事長が不安に思ったことは子供農園の計画を通して経験したこと、即ち回答を長期間貰えなかった事が我々の場合はともかくとして彼らにも同じような体験をさせてしまわないだろうかと言うことです。そして不安を不信に変えたりはしないかと言うことでした。もし信頼関係が失われたりすると空港の完成も開港もまた遅れるのではないかと危惧したのです。そのことがJCをして“現状での開港に反対”という行動をとらせたのでした。このことは空港推進派の最右翼を自負しているJCだからこそとった行動だったと言えます。そして多くのマスコミがJCの行動に飛びつきました。彼らはこのことを機会に我々が空港反対派に転向したかのような言質を取るべく厳しい質問を浴びせてきました。
現に翌日の一部のマスコミには我々が180度転向したかのような報道がありました。我々が主張したかったことは住民対策としてやるべきことはやり、守るべきことは守り、充分過ぎるほどの意思の疎通を行うべきだと言うことだったのです。この時の貴重な体験は後の空対協の活動にプラスになったと思います。鬼澤理事長年度は1975年(昭和50年)、空対協が誕生する8年前の年でした。そして空港は1978年(昭和53年)に滑走路一本で開港しました。開港してからも空港反対運動は全学連の各派閥と結びついて一定の勢力を保ちながら続いていました。一方空港に賛成する人々の数は圧倒的なのですがその声は聞こえて来ず、空対協の出現を待たねばならいのが当時の実情と言えるでしょう。その様ななかで空対協が誕生した後、地域振興連絡協議会が芝山町に移転していた千葉大学の村山教授と反対派の地元有志らとで誕生しました。この地域振興連絡協議会の委員に鬼澤さんが後に就任することになります。村山教授は私がJCの理事長年度の時に実施した市民懇談会のきっかけをつくった方で成田JCと共に汗を流した関係でした。鬼澤さんはこの時にはJC初代理事長だった小泉榮助空対協会長が亡くなられた後の会長に就任しておりました。そして空港間題は1991年(平成3年)11月21日から開催された空港間題シンポジウムの場で平和的解決に向けて議論されることになったのです。そしてこの日はその第一回目で運輸大臣、公団総裁、県知事、地元首長、元反対同盟熱田派の人々が参加されております。シンポジウムは1993年(平成5年)5月まで15回開催されました。第1回、第2回は上記の人々と地域住民、団体の代表が発言しました。第3回目から第6回目までは事業認定について、第7回目から12回目までは歴史的対立の根源について、第13、14回は航空行政について、空港問題の平和的解決について熱い議論が交わされました。
この結果シンポジウムは最終回を迎え
1,国は土地収用裁決申請を取り下げる
2,二期工事B,C滑走路計画は白紙に戻す
3,成田空港問題解決のための新しい場を設ける
以上のことを合意して終了しました。
新しい場とは成田空港問題円卓会議です。さて空港問題シンポジウムの運営委員に就任した鬼澤さんは運営委員として、或いは空対協会長としていくつかの話題を提供しました。その一つは運営委員会の席で或る情報が入りました。情報というのは運輸大臣の空港問題に関する発言です。それというのはシンポジウムの流れの中で今後国は強制的手段はとらないで話し合いでという事になったのですが、大臣の話し合いは良いのだがいつまでも待てないよと言った言葉が伝わって来た時、鬼澤会長独特の感情が爆発してしまったのです。我々、空対協の者や、世代が近い者は彼の性格を分かっているのですが、その場にどなたがおられたかは分かりません。ただ言えることは筋金入りの元反対派の代表者達が鬼澤会長の感情の爆発それは強烈な大臣に対する批判だと想像しますが、それに対し驚き、唖然としたと言われていました。
成田の単なる空港賛成派の代表だと見ていた人物の言動に驚き、その空港賛成派の鬼澤会長を見直し、それからはシンポジウム以外にも成田のレストランや鬼澤会長の自宅で元熱田派と空対協、 時には運輸省を交えて侃々諤々の議論をしたものです。その回数はシンポジウムを遥か凌いだと言えるでしょう。また芝山町の町長選挙の際に我々は元熱田派の候補の出陣式に参加し、さらに鬼澤会長は選挙力ーに乗り絶叫して応援しました。また町議会議員の選挙の際にも元熱田派の候補の出陣式に参加し、ここでは私も挨拶をした記憶があります。この様に鬼澤会長が元熱田派の人々を驚かした事から始まり彼らとの交が流進んでいったのでした。
次に多くの人が既に忘れているかもしれない事にふれてみます。
一つ目は空港公団本社の成田への移転です。鬼澤会長は会長就任以来機会ある度に空港を一日も早く完成させるためには空港公団の空港完成へ真剣さを示すために本社を成田に移すべきだと提言しておりました。その結果かどうかは別にして1996年7月1日に空港公団本社は成田に移転しました。後日、何かの集まりで、この事に関して当時の中村総裁の発言の中で鬼澤さんの名前を聴いたことを記憶しております。二つ目は新東京国際空港を成田国際空港へと社名を変えるべきだと繰り返し提言しておりました。この問題も結果かどうかは別にして、2004年4月民営化と同時に成田国際空港株式会社となり、新たな第一歩を踏み出したことは周知のとおりです。ここまで鬼澤伸夫さんとJC、空対協を結びつける記憶を手繰りながらその極々一部を紹介してみました。空対協40年の歴史から見れば当然多くの皆さんに物足りなさを与えてしまったことをお許しください。